essay Mengenang SANG GURU 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12
第二日目の公演(2007年8月27日)
「ムングナン・サン・グル」の公演二日目(2007年8月27日)は、初日と同じくガムラン・ゴン・クビャールとスマール・プグリンガンの競演であった。
若い世代のプリアタンのゴン・クビャール楽団「グンタ・ブアナ・サリ( Genta Bhuana Sari )」
そして、スマール・プグリンガンの楽団「ティルタ・サリ( Tirta Sari )」が登場した。
Performance Day 2 – All Artists
ティルタ・サリ楽団も、グンカッ・マンデラによって形作られた楽団だ。
当時グンカ・マンデラの右腕として知られ、また音楽家であり、演奏の指導家として人気を得ていたイ・マデ・ルバー(I Made Lebah)とともに1978年に、結成された。
この両名はグヌン・サリの結成時も活躍した名コンビである。
当時のプリアタンの芸能界で、この両名とグスティ・コンピアン(Gusti Kompiang)を合わせた3名は、いつも重要なパートナーとして演奏していた。
クビャール楽器を演奏する際には、マデ・ルバーのウガル、グンカ・マンデラとグスティ・コンピアンのクンダンというのが定番であった。
プレゴンガンになると、今度はマデ・ルバーがクンダン、グンカ・マンデラがウガルという風に、それぞれの持ち位置が決まっていた。
1970年代に入って、若い世代の演奏者の活躍が見られるようになり、
グンカ・マンデラの子息のアナック・アグン・ラカ・バワ(Anak Agung Raka Bawa)
そしてマデ・ルバーの息子のイ・ワヤン・ガンドラ(I Wayan Gandera)
が、次の世代を任された。
グンカ・マンデラが天に召される前、非常に大きな功績を、この楽団ティルタ・サリに残した。
最後のグンカ・マンデラの、そしてティルタ・サリにとっては初めての海外公演である。
1985年に日本公演へ出向いたグンカ・マンデラは車椅子を使うほどの体調の悪さにもかかわらず、最後まで楽団とツアー日程を共にした。
そして最後まで楽団を指導する情熱を絶やさずに、翌1986年12月1日に他界されたのである。
Tirta Sari – Legong Semarandana
今夜(2007年8月27日)のティルタ・サリ楽団が披露したのは、
プレゴンガンの楽曲「スカール・ゲンドット」
歓迎の舞踊「プシュパ・ムカール」
レゴン舞踊「レゴン・ラッセム完全版」
レゴン舞踊「レゴン・スマランダナ」
それぞれの舞踊は、若い世代の踊り手によって、踊られた。
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著者 : kadek ferry © f-studio
写真提供 : Doc. Mengenang Sang Guru 2007