essay Mengenang SANG GURU 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12
1日目の思い出
Performance Day 1 – All Artists
ギャニャール県知事によって公式に宣言された開会式は、そのまま初日の公演のプログラムへと続いた。
初日に関しては、開会式の招待客で席の大半が埋まる予定で、当初、我々運営委員会では一般客への開放は見合わせていた。が、管理を任されていた招待者名簿を整理し、座席数と照合した際に、椅子の配置の仕方によっては、階段を利用するなどして、少数だが一般客用の席が用意できる見通しがついた。
しかしながら、販売の数日後には、手元のチケット購入予定者名簿は予約者名でビッシリと埋まり、いきなりの完売となり、その後も問い合わせが続き、非常に驚いたのである。
開会式当日も、イベントを一目見ようと集まる村の人や、参加者の家族で通路も埋まる混雑ぶりであった。
それほどまでに観客の期待を集めたタクス(taksu)の持ち主、今夜の出演予定は
ゴン・クビャール楽団のグヌン・サリと、スマール・プグリンガン楽団のグヌン・ジャティであった。
グヌン・サリ楽団は、グンカック・マンデラと、イ・マデ・ルバー(I Made Lebah)、その友人達を中心にして1926年に設立された楽団だ。
村の青年団のひとつの活動にングラワン・バロン(ngelawang Barong)というのがある。
バリの行事であるガルンガンの時期に、御神体のバロンを担いで、楽器の演奏とともに村の家々を練り歩くというもので、当初、楽団は、そのングラワン・バロンを行う楽団であった。その頃のプリアタンのバロンは簡素なもので、材料も髪の毛や動物の毛などを使っていた。プリアタン内をバロン楽団として長年練り歩いていた彼らは、そのうち、何か新しい試みに挑戦したくなった。そこで考え出したのが、バロンとアルジョを同時に行うという方法であった。そして、このバロン・アルジョ舞踊が、プリアタン内だけだはなく、ギアニャール、クルンクンを始め、遠くブレレン地方までを興行に廻るほどになる。
ある時、バリ北部ブレレン地方のムンドゥック(Munduk)に行った時の事であった。
その場で、彼らは生まれて初めて本物の「ガムラン・ゴン・クビャール」を目にして、衝撃を受けたのだ。
彼らは、いつの日かプリアタンでガムラン・ゴン・クビャールの楽団を持って演奏したい。という情熱を持ち始めた。
I Made Lebah (Doc. I Made Sukanda)
イ・マデ・ルバーは、15歳の時からスカワティのアナック・アグン・ライ・プリット(Anak Agung Rai Prit)の元で楽器を勉強していた。この師匠はすでに大変な高齢であったが、教える事に非常に情熱を持っていた。
弟子が来ないと退屈な毎日を過ごし、弟子が習いに来れば来るほど熱心に教えて、元気がでるというタイプの人であった。
その弟子は、デンパサールのイ・ニョマン・カレール(I Nyoman Kaler)、クタのワヤン・ロットリン(I Wayan Lotring)そして、プリアタンのイ・マデ・ルバー、という、後のバリ芸能史上において重要な人物に成長し、それぞれが、また弟子を持ち教えるようになる。彼らこそが、熱帯の旅人を書いたコリン・マックフィー(Colin McPhee)に音楽の知識を与えたメンバーなのである。
同じ頃、それとは別にデワ・クトゥット・ブラットジン(Dewa Ketut Belatjing)が、グンカック・マンデラとニアン・センゴッグにレゴン舞踊を教えていた。1920年代当時には、まだプリアタンにレゴン舞踊は無く、ガンブー、アルジョ、サンヒャン、そしてバロンがあるのみであった。
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著者 : kadek ferry © f-studio
写真提供 : Doc. Mengenang Sang Guru 2007