有名なバリ・ガムランの師匠、そして偉大な演奏家
「やさしい近所のお爺ちゃん」これが、私fが幼い頃に強く抱いていたイ・マデ・ルバー氏のイメージである。1980年代後半、幼かった私は、よくバンジャール・カラーの集会所で遊んでいた。その頃バンジャールではギアニャール県ブラバトゥ村のパンデ(バリ・ヒンドゥ教カースト制の鍛冶職人階級)から、ガムラン楽器を一式購入したばかりで、バンジャールの演奏家達は嬉々として日々練習に明け暮れていた。
イ・マデ・ルバー氏 (Doc. I Made Sukanda)
曲を教えていたのは、イ・マデ・ルバー氏と彼の息子のワヤン・ガンドラ氏(故人)である。ルランバタン(主に寺院で奉納される楽曲)はルバー氏が、トペン舞踊の曲の時はガンドラ氏が交互に指導をしていた。私は彼らが何という名前の曲を演奏しているのかまでは良く判らなかったが、この二人の先生の傍に陣取って、いつも楽しんでガムランの音色を聞いていた。
その後バリ・ガムランの演奏に興味を持ち始めた私は、1992年に当時子供楽団であった「グンタ・ブアナ・サリ」へ参加するようになった。子供楽団での経験を重ねるに連れて、演奏法の基礎も少しずつ覚え始めた私は、バンジャールの演奏家達から、このバンジャールの成人楽団に「イクット・サジャ!(一緒に叩こう)」と誘ってもらえるようになった。
もちろん私の演奏能力で大人に混じるのは厳しかったが、一緒に叩けるのは嬉しかった。曲の名前や種類が判るようになって知ったのだが、このバンジャール・カラーの楽団が叩いている曲は、全て「やさしい近所のお爺ちゃん」とガンドラ氏によって伝承されたプリアタンの古典ルランバタン曲ばかりだった。
これら古典ルランバタンは、現在でもいくつかのプリアタンの楽団によって伝えられ、生き続けている。
イ・マデ・ルバー氏とマンデラ氏(A.A.Gde.Mandera)によって1926年に設立されたグヌン・サリ楽団では、現在も頻繁にプリアタンの古典曲を好んで演奏している。また、ガラン・カンギン、タブ・スマランダナ、タブ・ピサン(Tabuh Lelambatan Galang Kangin, Tabuh Semarandana, Tabuh Pisan)などの有名な曲は、ルバー氏に直接指導を受けたバンジャール・カラーのグルニタ・サリ(Gurnita Sari)楽団だけでなく、バンジャール・トゥンガーのマドヤ・サリ(Madya Sari)楽団、タガスの楽団によっても寺院の奉納などで演奏されている。
「やさしい近所のお爺ちゃん」の別の側面としては、バリの音楽家と舞踊家の間では非常に有名な人である事を私は後に知った。作曲家そして演奏家として海外でも知られていたのだ。書籍「A House in Bali」の中で、著者のコリン・マックフィーはイ・マデ・ルバーの事を親しい友人と記述している。バリの有名な演奏家であり、ガムラン教師であり、作曲家であり、そしてマックフィーの運転手兼コンサルタントとしてバリ滞在中マックフィーと行動を共にしていたと書かれているのだ。
マックフィーの研究に同行して、バリの芸能の解説を行い、当時バリ島内で活躍していた音楽家や舞踊家の友人を直接マックフィーに紹介して会わせたのが、ルバー氏だったのである。イ・ワヤン・ロットリン、イ・ニョマン・カレールなどの1930年代のバリ芸能家達、現在のバリ芸能界で伝説の人々である。もしもマックフィーがルバー氏の協力を得ていなければ、この書籍が“Music in Bali – A Study in Form and Instrumental Organization in Balinese Orchestral Music”という、ここまで完成度の高い内容には仕上がっていなかった、と言っても過言では無いと思う。
また、ルバー氏はグヌン・サリ楽団にとっても重要な人物であった。リーダーのマンデラ氏の右腕となって活躍、その熱意はグヌン・サリ楽団を国際的な場へ登場させる手助けとなった。1931年のフランス・パリ植民地博覧会において、バリ芸能を初めて海外に持参、プリアタンから舞踊家と音楽家だけでなく、彫刻家、絵画家などの芸術家集団を博覧会へ送り込み、ヨーロッパにバリ藝術旋風を巻き起こした。
フランスで大成功をおさめたグヌン・サリは益々活気を帯びてきた。当時のオランダ植民地政府によって1937年にギアニャールの広場に於いて開催されたガムラン・ゴン・クビャールの競技会では、ルバー氏とマンデラ氏は参加準備に情熱を注いだ。
その結果、グヌン・サリ楽団が優勝旗を獲得。賞品として1年間の間、グヌン・サリ楽団のメンバーは植民地政策の「道路作りの作業」を免除されたと1933年に書かれた本「Peliatan Legend」にある。
バリ島内の活動のみならず、1952年にはヨーロッパとアメリカのツアーをイギリス人ジョン・コーストとともに成功。1971年にはオーストラリア人クリフォード・ホッキンとの協力でバリ舞踊と音楽をオーストラリアへ持参して、バリ芸能の海外への紹介をし続けた。
芸術家としての才能、海外での成功、国内での熱心な活動によって、イ・マデ・ルバー氏はいくつかの表彰を受けている。
数々の表彰の中には、ギャニャール県からの「ウィジャヤ・クスモ賞(Wija Kusuma Award)」や、1993年のバリ州教育文化省からの表彰などが含まれている。また同年にはインドネシア文化省と教育からそれぞれ芸術賞を授与された。
イ・マデ・ルバー氏は、非常に才能のあるバリ・ガムラン演奏家であり、ガムラン教師であった。そして私の記憶では、やさしい近所のお爺ちゃんであり、夕方になると毎日私の家にやって来て、私の祖父が闘鶏用の鶏の筋肉をほぐす横で、一緒におしゃべりに昂じる親しい友達でもあった。
イ・マデ・ルバー氏とイ・ワヤン・グンブレン(私「 f 」の祖父)
Photo Doc. f studio 1980’s
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