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そして、今夜の最後のグヌン・サリの演目は「レゴン・バパン(Legong Bapang)」であった。
- 踊り手
- チョンドン役 アユ・ブラントリスナ・ジェランティック(Ayu Bulantrisna Djelantik)
- レゴン役 デサック・プトゥ・ウィディ(Desak Putu Widhi)
- レゴン役 カルティカ(Kartika)
Gunung Sari – Legong Bapang: Desak Putu Widhi, Kartika, Ayu Bulantrisna Djelantik. Kendang player Gusti Kompiang.
(Photo Doc. Bulantrisna Djelantik, 1960’s)
Gunung Sari – Legong Bapang: Desak Putu Widhi, Ayu Bulantrisna Djelantik, Kartika (2007)
グン・アユ・ブランとして、親しまれるアユ・ブラントリスナ・ジェランティックは、ニアン・センゴッグの直弟子であり、踊り手として、また指導者としても非常に素晴らしい人物である。
彼女が踊りを指導する際には、いつも「プリアタン・スタイル」を前面に出す。
「プリアタン・スタイル」を尊重したレッスンを受ける彼女の生徒達は、まさしくサン・グルの流れを汲んでいるといえるだろう。
プリアタン出身の舞踊指導家であるサン・グル「ニアン・センゴッ」、彼女の名は「ダンシング・アウト・オブ・バリ」の著者ジョン・コーストによって、レゴンダンサー達の先生として1952年に初めて名前を記されている。
レゴン・クラトンの踊り手は、ある程度の年齢になるとレゴン・クラトンを卒業する為、次々に世代交代が行われる。ニアン・センゴッは1950~1970年代の間に、5世代のレゴン・クラトンの舞踊家を育てている。アユ・ブランも、その中の一人である。
ニアン・センゴッは、非常に謙虚で物静かな人として知られていた。いつもキンマの葉とナッツの入った噛みタバコ用のバスケットを持参して、練習場所に現れた。
しかし彼女の教え方は、その性格と反して激しいものであった。
踊り子の後ろに回って、容赦なく羽交い絞めのように体を掴まえ、踊り子が動きを覚えて、心で感じ取れるまで、繰り返し繰り返し同じ動きをさせて踊らせるというものであった。
そのレッスンには、しばしグンカッ・マンデラが同行した。ニアン・センゴッグの唄う踊りのメロディにあわせて、彼が太鼓(クンダン)を叩いていた。
物静かで、多くを語らずとも、ニアン・センゴッグはバリ島のプレゴンガンを豊かにする役目をしっかりと果たした人物であるといえる。
「プリアタン・スタイル」とは、本当は一体何を指すのであろう?と「f」はグン・アユ・ブランに何度か問うた事がある。
アユ・ブラントリスナ・ジェランティックの考えよると、解剖学を引用すれば、プリアタンのレゴン舞踊は他のそれと比べると、「背中を湾曲させて前方に倒し、顎も前方に突き出して、激しくダイナミックな動きを取って、揺れる」
という特徴があると話してくれた。
彼女を含めた1956~1965年ごろの世代の生徒たちは
「反らせる(melengkung)」「固定(kunci)」「上げる(angkat)」「つまづく(sendat)」「振動させる(getar)」
を徹底的に叩きこまれたという。
全てが、現在現役の踊り子にも踊られているプリアタン・スタイルの特徴的な動きである。
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著者 : kadek ferry © f-studio
写真提供 1 : Doc. Ayu Bulantrisna Djelantik
写真提供 2 : Doc. Mengenang Sang Guru 2007