ノスタルギア・ジョゲッド・ブンブン

プリアタン村バンジャール・カラー地区に残る「ジョゲッド・ブンブン」の歴史

1950年代~70年代にかけてのバリ芸能家によるノスタルギア・ジョゲッド・ブンブン公演

バリ人に知らない者はいない!と言えるほどポピュラーな舞踊である「ジョゲッド・ブンブン(Joged Bumbung)」は踊り手が観衆を誘って一緒に踊るという、即興の舞踊である。
女性の踊り手が、観客を踊りに誘い、他の観客がそれを観て楽しむという娯楽性の強い舞踊。
最近は、本来のバリ舞踊とはかけ離れたセクシーな動きを売りとする地域もあり、社会問題を起こしている所もあるようだが、バリ島庶民の心を掴んで離さない芸能の一つとして、現在まで続く古い歴史を持っている。

Nostalgia Joged Nostalgia Joged

「ジョゲッド・ブンブン」は、1946年頃にバリ島北部のブレレン地方で踊り始められた舞踊で、1950年頃にはバリ島中で大流行した。ここの隣組(バンジャール・カラー)でも例外ではなく、青年団を中心に、歌舞団が組まれたほどだ。

1955年、当時の青年団に所属していた若き日のマデ・ナモ氏、イ・ワヤン・スディラ氏などの芸能好きが楽団を編成し、イ・ニョマン・レゴグ氏(1930年代のバンジャール・カラーの音楽家)の所有していた楽器を借りて、「ジョゲッド・ブンブン・ングラワン」として、あちこちを周遊し、プリアタンを含む周辺地域へ呼ばれては「ジョゲッド・ブンブン」を行っていた。

1957年になると、このバンジャール・カラーの「ジョゲッド・ブンブン」は有名になり始め、規模も大きくなり、当時バンジャールの長であったスダルタ氏らの話し合いで、正規の楽団としてバンジャール(隣組)が管理するようになった。
バンジャール・カラーの音楽家である故イ・ワヤンガンドラ氏が、楽団員に演奏を指導し、またガンドラ氏が友人に良い踊り手がいると紹介したブドゥル村の踊り手ニ・クトゥット・ルニャー女史(後にガンドラ氏と結婚)が呼ばれ、隣組の青年団から選ばれた女性の踊り子の指導をした。

ガンドラ氏とルニャー女史の指導で、「ジョゲッド・ブンブン・バンジャール・カラー」は、ますます発展、1957年~1962年の間に7人の正規の踊り子を抱えるまでになった。

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*1(left) I Wayan Gandera (故人), 1980年頃 演奏指導者
*2(right) Ni Ketut Lenyeh, 1980年頃 ジョゲッド舞踊指導者

師匠の指導の元に練習を重ねた「ジョゲッド・ブンブン・バンジャール・カラー」は、益々知名度を上げ、地域だけでなく、遠くはカランガッセムやタバナンからも呼ばれるようになり、政府からも招聘されるまでになった。この頃には楽団も、踊り子も公演が日常生活の一部になるくらいにまで忙しい時期を迎えていた。

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ポトン・ギギ儀式(Ni Ketut Lenyeh – Bedulu, 1957年)
左より: Ni Ketut Lenyeh & 父, I Wayan Gandera
1957年は両名がプリアタン村のバンジャール・カラーでジョゲッド・ブンブンを指導し始めた頃である*3

「セカ・ジョゲッド・ブンブン・バンジャール・カラー・プリアタン」
この長い名前の楽団は、20年近く活動を行い、三世代の踊り子を育てた。所属していた踊り子の数も20人を超えるそうだ。

一時期は、村や地域のための娯楽舞踊として以外に、バンジャールの集会場を会場にして、ツーリスト向けの定期公演も行っていた。それ以外にも楽団員が記憶に留めている公演には、インドネシア初代大統領スカルノ(芸能愛好家であった)が、タンパクシリンに建てられた大統領別荘で賓客を迎えるイベントの際に、三日間別荘に泊まり込みで、賓客のために公演を行ったというもののあった。

黄金期が長かったジョゲッドだが、1967~1970年代にかけて活躍した三世代目の踊り子が、この楽団の最後の踊り子となってしまった。
いつの世にもトレンドがあるように、ゴン・クビャール熱が再燃したバリ島では、目新しい別のバリ芸能が庶民に好まれるようになりはじめ、「ジョゲッド」の流行も下火を迎えたのだ。

それから約30年経った今年2010年、バンジャール・カラーで行われた隣組長(クリアン・バンジャール)の選挙で、現役の隣組長が再選された。その隣組長就任式のイベント内で「セカ・ジョゲッド・ブンブン・バンジャール・カラー・プリアタン」を再結集しようという案が出された。

6月11日夜。新隣組長、新婦人会長を始めとする各隣組集団(POKJA)のトップが任命されて署名式が済み、政府からの招待客や住民が集まる中「セカ・ジョゲッド・ブンブン・バンジャール・カラー・プリアタン」のノスタルギア公演が行われた。
バンジャール・カラー住民たちは、この芸能家たちの復活公演を大歓迎した。

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ジョゲッド公演の前にも、幾つかのバリ芸能が披露された。
婦人会による舞踊(プリアタン・スタイルの歓迎のダンスと極楽鳥の踊り)そして、孫を持つ年齢でありながら、今なお現役で踊ったり、先生として活躍するバンジャールの舞踊家二名による古典舞踊。
ガンドラ氏とルニャー女史の娘「ニ・ワヤン・スリアティ(ルー・マス)女史」による女性のクビャール・トロンポン舞踊。演奏家、仮面舞踊家として知られる「イ・クトゥット・マドラ」氏のバリス・トゥンガル舞踊。
という、普段はお目にかかれない内容で編成され、後に登場する「ノスタルギア・ジョゲッド」の雰囲気を盛り上げた。

そして、いよいよ観衆の待ちに待った「セカ・ジョゲッド・ブンブン・バンジャール・カラー・プリアタン」の登場である。招待客や村の人が舞台に引っ張り上げられ、最初から最後まで、会場は沸き続け、拍手と笑いが止まらない夜となった。

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この夜、観衆を沸かせたのは「ニ・ワヤン・ロティ女史」「ニ・ワヤン・クルティ女史」「ニ・ワヤン・ムドリ女史」そして、彼女達の師匠であり、バンジャール・カラーのジョゲッドの開花を手伝った「クトゥット・ルニャー女史」である。

私「 f 」は、この夜の、それぞれの舞踊家達が自分の踊りを舞う自信に満ちた姿に心惹かれた。昔から、バンジャールの老人や、大人達が語っていた「セカ・ジョゲッド・ブンブン・バンジャール・カラー・プリアタン」の存在を、 f 自身の目で確かめる機会を得たのも、嬉しかった。

当日の会場は、道路にまで人があふれていた。現在は結婚式やイベントの余興として捉えられるジョゲッドだが、その拍手と声援からは、自分達のバンジャールが持つ古い芸能として、別の意味でジョゲッドを捉えて、大きく支持している感じを受けた。
我々若い世代は、これらジョゲッドを含め、地域には数々の「古典芸能」が眠っている事を忘れないようにしていきたい。

著者: kadek ferry © f studio
Photo © mayumi inouye
*1 Photo : Doc. I Made Sukanda
*2 Photo : Doc. Ni Ketut Lenyeh
*3 Photo : Doc. I Made Sukanda, Photo Courtesy of Mr. Jack Ward, USA